6/17、18と愛知県刈谷市内の愛知教育大学にて開催されました第60回歴史地理学会大会・総会に参加してきました 私自身は歴史地理学会に参加させていただくのは初めてですが、この間、日本地理学会では研究の報告させていただく下での参加でしたので、今回はいささか気楽でした
でも、多分、土地家屋調査士が歴史地理学会に参加するのは初めてでしょうね 正直、もったいないなあ、と思います この際、折角ですので、何回かに分けて感想を書きたいと思います
「住宅購入のために住宅ローンを組んだ」
「バブルがはじけて、不動産の価格が1/3に下落した」
「政府による政治改革もむなしく、景気は尻すぼみになった」
「大よそ20年に一度、その地区の不動産は売買を繰り返された」
これは現代の話ではありません
では、いつか、というと江戸時代中ごろの話です
300年たっても、この社会は何も変わっていないってことでしょうか
これは、歴史地理学会での鷲崎俊太郎先生(九州大准教授)のご報告 「江戸の土地不動産における収益率と利回りの時系列分析―賃貸・売買・抵当市場において―」、の一部です
鷲崎俊太郎先生のお話は江戸の築地近くの旧幕府の引継書「南飯田町南本郷町延享絵図」にある沽券図や水帳の記載資料を使って、不動産価格や利回り分析など、地理というよりは経済史のお話がメインだったと思いますが、地籍図の分析にもヒントになる、大変興味深いものでした
興味深かったこと①
大名貸の金利が江戸時代前期は年利10%を超えていたが、だんだんと金利は下がっていった
江戸時代の前半は大名貸しができるほどの豪商(資本家)の数が少なく、売り手市場だったのでしょうか カルテル(談合)も結び放題だったのかもしれません もともと、大名貸しは一社独占というよりシンジケート団を組んでの融資(協調融資)だったのではないでしょうか 想像の域を出ませんが…
または、もしかして貸し倒れを危惧しての高めの金利設定だったのかも知れませんね
興味深かったこと②
女性か住宅ローンを借り、貸していること
また、報告の中で江戸時代の住宅ローン(当時は「家質」といったようです)の例を、当時の家質の証文の具体例挙げていただきましたが、驚いたのはこのケースがなんと抵当権者も、抵当権設定者も女性ということです(名前からの推測です 一人は「ちゑ」もう一人は「おうた」)
わかりやすくいえば貸し手も、借り手も女性、ということですね 現代でも、まだまだ女性の単独での住宅ローンの借り入れは珍しいと思います ちなみに年利は7.5%とのことでした
現在の金利水準は異常な低さですが、平成のバブル期の住宅ローンの金利もそのくらいでしたね もっともインフレ率なども勘案しないと、実質的に高いのか低いのかは判断できないですが、報告の中では飢饉が発生すると金利が下がる相関関係が見られるとのことでした
しかし、ここまで全体としてみると「元禄」、景気がよかったようですね―
不動産価格も元禄期に江戸時代の最高価格を付けたみたいです
たしかに景気のいいことを表現する「昭和元禄」、って言葉もありましたが元禄というと私のイメージでは「生類憐みの令」と「赤穂浪士忠臣蔵」くらいでした その後、景気が良かった元禄期が過ぎ、吉宗による享保の改革のころにはすっかり景気が低迷したようです
つまり、元禄期に江戸時代の不動産バブルを迎え、元禄期後には不動産価格が1/3に下落したわけです
都市部だけとはいえ「バブル崩壊」、まさにそのまんまです
なお、元禄期には大津でも、堺でも町絵図が奉行所の命により作成されましたが、こうした地価の高騰が背景にあったのかもしれませんね
時代は下って、享保を経て、そこから田沼時代があり、積極的な景気浮揚策により多少持ち直します しかしその後の寛政の改革のころにはすっかり元の木阿弥で、そのまま幕末まで長期低落傾向だったようです その期間約、150年、失われたというにはあまりに長いですね
学生の頃には江戸時代の何とかの改革、というと細かい政策面での暗記が中心で、それほど面白いとは思いませんでしたが、不動産価格をそこにリンクさせてそれぞれの時代と背景をみていきますと、その時代時代の傾向、政策の狙いがはっきりつかめるのだなあ、と感じました。
そうえいば、田畑の売買が自由になったのは明治5年の「地所四民共永代売買所持ヲ許ス」明治5年2月15日太政官布告第50号、以降になりますが、その後すぐに「地所質入書入規則」明治6年1月17日太政官布告第18号が発布されます
これは抵当権、質権設定のための規則ですが、これだけ早い時期にこの規則が出た、ということは全国的にも、それだけお金の借り入れと抵当が頻繁だったということでしょう
ここまでくると業界的に興味があるのは「土地家屋調査士」の前身は江戸時代に存在したか、ということですが、これは私見ですが存在しなかったと思います
まず「分筆」、これがありません 元禄期から幕末まで、滋賀県大津市においてですが、ほとんど分筆の事例がありません 都市規模は違いますが江戸も恐らくそうだと思います そもそも分筆がないということが、沽券図が成立する遠因、条件の一つのようにも思います 頻繁に分筆がありますと、公図混乱になってしまいかねません
特に道路側の、間口が狭くなる分筆はほぼありえないのですが、細長い奥の土地を路地で出入りを確保する形で、貸し出すケースは多くありました この際は分筆せず、敷地の一部を貸出しした方式がメインのようです 大津市でも地券取調総絵図記載の軒下地の有無で一筆単位で確認ができますね
また建物の登記はありません 今回の歴史地理学会の報告でも「家屋敷」という表現で土地とセットで建物が売買されているようでした
ちなみに沽券図や水帳、家質の証文は名主の管理だったようです 名主さんが法務局の役割を担っていたわけです もしかして司法書士の役割も果たしていたのかもしれません 現代でいえば本人確認はどうしていたのか、ちょっと興味はあります
ただ不動産の売買には名主だけでなく、五人組の承認も必須だったようです 農村部と違って年貢を納めない江戸市中でも五人組の制度はかなり厳密だったみたいですが、これはさしずめ江戸時代の隣地承諾ですかね
なお、意外に思われるかも知れませんが、現在のわが国の不動産登記制度は、近世由来の形式をかなり忠実に継承してきています 水帳・家質・沽券、みんな現代に受け継がれている点、大変面白く感じますし、現在の登記制度が実質的に江戸時代から続く300-400年物と考えますと、この制度は実は日本人の行動様式や考え方に合っているのかもしれませんね
もう一度まとめますと、江戸時代の不動産売買は口入(現在の不動産業者)のあっせんで、不動産の売買が成約し、名主が登記を実行する、住宅ローンは現代と同じ不動産の所有権移転と同日設定、如何にも現代ですよね
なお、今回報告をされた鷲崎先生からは岩波講座日本経済の歴史全6巻の近世編が近日販売になるようで、詳細はそれを読んでください、とのお話でした 発刊されましたら私も是非読んでみようと思いました
最後になりますが、文頭に歴史地理学会に土地家屋調査士が参加したことはないでしょうね、と書きましたが、こうしたアットホームな感じ(逆に言えばこじんまり)の学会ですので、土地家屋調査士も不必要に肩ひじ張らず報告ができるのではないかな、と思いました 先述の九州大学の鷲崎俊太郎先生もどう考えても地理学はご専門ではないですしね
本来、歴史地理と土地家屋調査士業務は大変密接な分野なのですし、今日書いたような地籍図や水帳の話も実務家の視点がないと、どこかもの足りない思いがあります また、こうした地点から学問的にも地道に実績を積み上げることが、ゆくゆくは実務面にもフィードバックされるのではないでしょうか