今日は五村別院境内にて「教如上人御廟所御修復完了記念法要」が行われました。
いつも静かな境内に、今日は少しポップといいますか、ファンキーといいますか、陽気な音楽が流れ、多くの方が参拝にお出でで賑やかでした。お菓子のお豆まで配られていたようですね。
また今日YAHOOニュースを見ていましたらこんな記事が飛び込んできました。「信長に徹底抗戦し、東西分派の原因をつくった本願寺教如が入寂~今日は何の日」。なんと、10月5日は教如上人の入寂された日、という大変マニアックな紹介でした。YAHOOニュースも幅広い記事を取り上げるんですね~
折角ですので下に記事を転載させていただきましたが、もっと詳しいことを知りたい方は宮部一三著「教如流転」をお読みください(上の写真参照)。なお、同書はとうに絶版ですので入手は困難かもしれません。
肖像画を見る限り、大変強い意志の持ち主であったことが窺いしれる教如上人。信長、秀吉、家康の三傑に対抗し続けた教如上人。大豆とお酒が大好物だった教如上人。大河ドラマでは宗教指導者は全く取り上げられないこともあり、あまり広くは知られていないと思いますが、その人生は生半可な戦国武将よりも戦国武将的であったと言えます。
ともあれ、今日10月5日は湖北地域の人々が、教如上人の苦闘の歩みに思いをはせ、郷土の歴史を身近に感じる日で有り続けることは間違いないでしょう。
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慶長19年10月5日(1614年11月6日)、教如が入寂しました。本願寺顕如の息子で、本願寺が東西に分裂する原因となった人物として知られます。
永禄元年、教如は本願寺第11世・顕如の長男に生まれました。幼名茶々麿。永禄13(元亀元)年(1570)、13歳で得度します。同年、織田信長との9年間も続く石山合戦が始まると、教如は父・顕如を助けながら成長しました。成人する頃には、教如自ら諸国の門徒に檄文を発するまでになっていたといわれます。また元亀2年(1571)には、朝倉義景の娘と婚約しました。
天正8年(1580)、信長を苦しめ続けたさしもの顕如も、朝廷の仲介を受け入れて信長との講和を進め、自らは紀州鷺森(現在の和歌山市)に退去して隠居することを決めますが、これに反対して徹底抗戦を主張したのが教如でした。このため、顕如は教如を義絶するに至ります。教如、時に23歳。 それでも教如は大坂から立ち退こうとせず、父親が立ち去った後も主戦派の門徒らの支持を得て、4ヵ月間、石山で戦い続けました。そして、一時期、本願寺に身を寄せていた元関白・近衛前久の説得によって、教如はようやく本願寺を信長に明け渡しますが、その直後に本願寺は出火し、伽藍は灰燼に帰しています。
天正10年(1582)に信長が本能寺で斃れると、後陽成天皇の斡旋もあって、教如は父・顕如から義絶を解かれました。その10年後の文禄元年(1592) に顕如が他界すると、教如は本願寺を継承します。時に教如、35歳、しかし教如は、自分とともに本願寺から退去せずに戦った者たちを重用し、父とともに退去した者と差をつけたために、教団内に対立を招くことになりました。
翌文禄2年(1593)、豊臣秀吉は教如を大坂に呼び、10年後には本願寺を弟の准如に譲るよう命じます。これに教如を支持する坊官が異議を唱えると秀吉が怒り、10年後ではなく、即刻退隠が命じられ、本願寺はかたちの上では准如が継承しました。かたちの上でというのは、その後も教如は本願寺の公式文書に「大谷本願寺釈教如」と署名し、他にも法主にしか認められない権限を行使しており、実質的には法主の立場を維持していたと見られるからです。
そして慶長3年(1598)に秀吉が没し、関ケ原に向けて世が騒然となる中、教如は動きました。慶長5年(1600)、関東の信徒を見舞う名目で江戸に赴き、徳川家康に上方の石田三成らの動向を伝えたのです。家康はこれを喜び、教如に名馬を贈るだけでなく、尾張まで帰途の安全を確保してやりました。しかし、美濃ではすでに西軍側の戦いの準備が進んでおり、教如が東軍に協力したことをつかんだ石田三成は、手勢に教如の捕殺を命じたといわれます。教如は三成の兵の追捕から美濃の寺の須弥壇の下に隠れるなどして逃れ、近在の村の屈強な信徒に護衛されつつ美濃を転々としました。
やがて関ケ原合戦で東軍が勝利し、教如はようやく京都に戻ることができたといわれます。家康は自分に味方した教如を再び法主の座に返り咲かせようと考えますが、重臣・本多正信の「本願寺内部の対立を利用し、徳川家は教如の一派を支援することにして、勢力を二分するのが得策」という献言を容れて、本願寺を分立させることを目論みます。そして慶長7年(1602)、後陽成天皇の勅許を得た上で家康は、京都の七条烏丸に四町四方の寺領を寄進、翌年ここに教如を法主とする東本願寺が別立されました。かくして本願寺は、准如が継承した西本願寺と、教如が別立した東本願寺の二つに分かれることになったのです。
秀吉、家康という天下人の意思が本願寺のあり方に大きく関わったのは、やはりそれだけ本願寺の勢力というものが、為政者にとって無視できないものであったからなのでしょう。 慶長19年(1614)10月5日、教如は世を去ります。享年57。大坂冬の陣の直前のことでした。