今日は滋賀県米原市内のとある地区にて地籍図(古地図)の調査をしてきました。目的は土地家屋調査士業務の「公図(地図)訂正」の依頼をいただいており、その根拠資料としてこの古地図を利用できないかと考えたからです。
通常、そうそう余所者に自治会が保管・所蔵されている地籍図は見せていただけないのですが、今回の調査地域では自治会長さんに大変気持ちよくOKをいただき、誠に助かりました。
広げていただいた地図、上記の画像をみて、経験のある方でしたらすぐ「壬申地券地引絵図」と答えられると思います。それくらいわかり易い色使い、記載内容も文字情報は地番と反別(面積)で壬申地券発行時に作成された地図に間違いないと思いました。
ですが、地図の表紙には「明治九年製 近江国阪田郡〇〇村地籍図」とありました。(地籍図の「籍」の字が崩し字でわかりづらいです)
明治九年と言いますと、壬申地券(郡村地券)は既に発行され、地租改正も始まって、明治九年には改めて県内地租改正の再調査が命じられている、そんな時期です。
また地図には戸長や百姓総代などの署名押印もありませんでしたので、これは壬申地券地引絵図の複写物であろうと考えました。この村落は大変大きい集落で、かつ、この図は全村図ですので、15畳ほどの大きさの地図が二葉という大変なものでした。また、地図を書き写した証左として、グリッド線がきれいに正方形の線が入っていました。下記の写真でも分かると思います。
滋賀県の場合、集落で古地図が出てくると判で押したように、今回のごとく「壬申地券地引絵図」関係の物が出てきます。壬申図は江戸時代から使用されてきた村絵図の引き写し程度のものが多く、実測や精度など地図の出来としてはやや劣る地籍図です。ただ、この壬申地券地引絵図が今日まで地域で大切にされてきた理由を思うと、やはり集落の構成員で、自分たちが作成した地図である、という思いがあるのでしょう。「おらが村の地図」という当時の村民の意識が地域の記憶として引き継がれているのではないでしょうか。また、土地の地券(権利証)もこの事業でもらえる訳ですから、これで「地主になれるぞ」という高揚感もあったのかもしれません。
そうした意味では代々引き継がれる地図の要件とは、地図としての物理的な正確性よりも「作製者や使用する人たちの気持ち」が一番の大切なのかもしれません。
ちなみに肝心の土地家屋調査士としてのお仕事である「公図(地図)訂正」には実際のところ、今回の地図は使えなさそうでした。そもそも小字も地形も変動があって、里道水路も公図と違いすぎ、現地特定すら困難な状態でしたので、地図訂正の根拠どころではないですね。
なお、壬申地券地引絵図が公図訂正に使えないケースは他の地域でもおおよそ当てはまると思われます。(調査する意味はあるとは思いますが)
業務で使えないのは残念でしたが、自治会長さんのお心遣いに大変感謝感謝の一日でした。