世田谷が滋賀県の一部?「世田谷の土地―絵図と図面を読み解く」より

 

 コロナウイルスの影響でイベント等々も全て中止となり、お出かけもままならない日々が続きます。ブログのネタも尽きそうなところですが、興味深い一冊の資料集を購入しましたので今月はこちらのご紹介をボツボツさせていただこうかと思います。

 

 その資料集の名前は「世田谷の土地―絵図と図面を読み解く」、東京都の世田谷区立郷土資料館より平成27年に発刊されているものです。

 この資料集の存在を知ったのは、先日から明治初期に彦根藩領にて作製された「耕地絵図」について調査していた際に、同時期に世田谷区の方でも耕地絵図が作製されており、この資料集に掲載されているとの情報に接したからです。正直なところ、「なんで世田谷?」と思いました。

 

 世田谷区と彦根藩(滋賀)とのつながりは、世田谷区にある有名な豪徳寺が井伊家の江戸の菩提寺であることは存じていましたので、何となくは知っていましたが、まさにその程度でした。

 いうまでもなく井伊家は大老職を務める譜代筆頭の家柄ですから、江戸にて生活する期間も長いため当座の生活の手当て、江戸賄料として江戸近辺にも藩領を有しており、ちょうど豪徳寺周辺にその村々がありました。また、一つの村を複数の領主が分け合う「相給村」も存在していたとのことです。滋賀県内にも相給村は存在しますが、江戸と京都という大都会に地理的に近いと、同じような現象が起きるのですね。

 

 江戸時代を通じて基本的には彦根藩領という経緯があったことから、近代に入っても世田谷区の中心部は彦根藩、そしてそれを引き継いだ彦根県の一部(飛び地みたいなもんですね)でした。具体的には明治4年11月、廃藩置県までのようですが、今日からするとなんだか相当な違和感があります。

 

 

 

 肝心の「耕地絵図」ですが、これという図は掲載されていませんでした。火事等々のせいかもしれませんが、滋賀県ではほとんど保存されていることと比べると、世田谷の耕地絵図はもうほとんど残っていないのかもしれないですね。

 ちなみに下は彦根藩領であった「八幡山」の村高反別絵図です。全体的に使用されている専門用語とかも滋賀とはやはり少し違っていたりして「世田谷の土地」、今月また別の機会にご紹介させていただきたいと思います。

 

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